佐藤 義則(さとう よしのり)
1954年 北海道奥尻郡 出身
プロ野球 コーチ・解説者
- 学歴
- 日本大学 卒業
- 講演可能地域
- 全国
- 主な講演テーマ
- 「名投手育成職人、優勝請負人が語る人材育成と長所の伸ばし方」
「ダルビッシュ、田中将大を育てた人材育成論」
「一流人材の育て方 ~伸びる人材、伸びない人材の違いと伸ばし方~」
- 主な著書
- 「佐藤義則 一流の育て方:ダルビッシュ有・田中将大との1600日」
「超一流の育て方:楽天イーグルス投手コーチ・佐藤義則とエースの5年間」
「絶対エース育成論:なぜ田中将大は24連勝できたのか?」
- 経歴
- 阪急ブレーブス黄金時代を支えた大投手。右投右打。投手。背番号11。函館有斗高校から日本大学へ進み、1976年秋には78奪三振の東都大学リーグ新記録を樹立。1977年、ドラフト1位で阪急へ入団。ルーキーイヤーから阪急のリーグ優勝、日本一に大きく貢献し新人王に輝く。1978年、二年目にして13勝8敗1Sの好成績。チームもリーグ連覇を果たす。しかし、1980年は不本意な成績に終わり、翌1981年に椎甲板ヘルニアで投手生命の危機に立たされる。選手登録を抹消されて1軍登板も無く、任意引退選手となる。だが、翌1982年には練習生から復活し、主にリリーフで4勝2敗13セーブを残し復活を遂げる。1984年、先発に復帰して17勝6敗1S136奪三振。奪三振王に輝き、チームは6年ぶりにリーグ優勝。1985年には21勝11敗の成績で最多勝に輝き、188奪三振は2年連続の奪三振王でもあった。以後、パシフィック・リーグでの20勝投手は2003年のソフトバンク斉藤和巳まで現れなかった。1986年は14勝6敗1S、防御率2.83で最優秀防御率のタイトルを獲得した。1987年 当時のエース山田久志に代わりプロ11年目にして開幕投手を務める。1994年4月には通算150勝を達成する。1995年8月の近鉄戦では40歳11ヶ月という(当時)史上最年長でのノーヒットノーランを達成。同年、オリックスブルーウェーブに改称後、初のリーグ制覇。1998年、通算500試合登板を果たすも、現役を引退。長身から投げる落差の大きな独特の変化球は魔球「ヨシボール」と呼ばれ、44歳までの22年間の現役生活を支えた。引退後1999年より2001年まで古巣オリックス、2002年~2004年阪神タイガースの投手コーチを歴任する。2003年には阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。2005年からは地元・北海道日本ハムファイターズの投手コーチに就任。防御率リーグ5位であった投手陣を鍛え上げ、2006年に北海道移転後リーグ初優勝。2007年には球団初となるリーグ連覇。ダルビッシュら若手の育成に力を注ぎ、リーグ屈指の投手王国を築いた。2009年野村克也監督に「日本一の投手コーチ」と称され、楽天に入団。田中、永井らを育成し、球団史上初のクライマックスシリーズ進出を果たす。2014年、楽天を退団。2015年ソフトバンクに入団。2回のリーグ優勝と日本一に貢献後、2017年に退団。2018年より楽天の投手コーチを務め、2019年に退団。